「ごめん。私もう絶対に幸せになんてなれないんだ。
だって気付いちゃったから。
私もうとっくに幸せだったんだって。」
― クトリ・ノタ・セニオリス
(『終末なにしてますか 忙しいですか救ってもらっていいですか』)
🧘♂️仏教的視点からの解説とアドバイス:
この言葉は、仏教で説かれる「今この瞬間に宿る“足るを知る”幸せ」を、
まさに命のぎりぎりで見つけた、深く切ない“悟りの言葉”です。
仏教では、人はいつも「未来の幸せ」を求めて苦しむ存在だと説かれます。
「もっと○○になったら幸せ」
「今はまだ不完全だから幸せじゃない」
――そうやって**“今ある幸せ”に気づけずに生きてしまう**。
これを「無明(むみょう)=真理への無知」と呼びます。
クトリのこの言葉は、まさにその**“無明が破れた瞬間”**。
“これ以上求めなくても、私はすでに幸せだった”
という**「知足(ちそく)=足るを知る心」**に到達した境地です。
ただ、その気づきが「手放す間際」だったからこそ、
それはあまりにも切なく、美しく、そして尊いのです。
🪷仏教的アドバイス:
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“幸せ”は未来にあるのではなく、“今”に宿る
気づけないだけで、私たちはすでに多くのものに恵まれています。
「ありがとう」と言えるものを見つけるたび、幸せは深まっていく。 -
「今ここにある幸せ」に目を向けることが“悟りの第一歩”
悟りとは、超常的な能力ではありません。
それは、「今ある命のありがたさに気づくこと」から始まります。 -
命の有限性を知ることで、“本当に大切なもの”が見えてくる
仏教では「死を見つめる瞑想(死想観)」があります。
限りある命だからこそ、今が奇跡であり、すでに満たされているのです。